退職して独立した後、以前担当していた取引先から仕事を頼まれた。あるいは、退職した営業担当者に顧客が移り、会社の売上げが減ってしまった。このような場合、元の顧客との取引はどこまで認められるのでしょうか。
元の勤務先の顧客と取引したという事実だけで、直ちに違法になるわけではありません。ただし、競業避止の合意、顧客情報の利用、勧誘の方法によっては、損害賠償などの問題になります。
この記事では、元従業員の責任を否定した三佳テック事件と、競業避止義務違反を認めたダイオーズサービシーズ事件を比較し、会社側・退職者側それぞれの確認事項を解説します。
まず確認するのは「契約」「情報」「営業の方法」
「顧客の引き抜き」という言葉だけでは、法律上の問題を特定できません。次の三つを分けて確認する必要があります。
| 確認事項 | 具体的に確認する内容 |
|---|---|
| 競業避止の合意 | 雇用契約書、就業規則、入社時・退職時の誓約書に、どのような制限があるか |
| 顧客情報の利用 | 顧客名だけでなく、担当者、契約単価、更新時期、個別の要望などを利用したか |
| 営業の方法 | 誰から接触したか、いつ勧誘したか、元の会社の信用を落とす説明や取引妨害があったか |
競業避止義務は、一定の競争行為をしない義務です。秘密保持義務は、一定の情報を漏らしたり、契約で禁止された目的に使用したりしない義務です。両者は重なる場合がありますが、同じものではありません。
また、契約上の秘密情報に当たるかという問題と、不正競争防止法上の「営業秘密」として保護されるかという問題も区別します。営業秘密としての保護を受けるための要件は、営業秘密侵害対応ガイドで解説しています。
三佳テック事件――元の取引先から受注しても責任を否定
最高裁平成22年3月25日判決(三佳テック事件)・判決文PDF・裁判所ウェブサイトは、退職後の競業避止について特約等の定めがない元従業員らが、別会社で同種事業を行い、元の勤務先の取引先から仕事を受注した事案です。
最高裁は、営業担当者としての人的関係等を利用することを超えて、営業秘密の利用や元の会社の信用を落とすなどの不当な方法を用いたとは認められない点などを考慮し、不法行為を否定しました。信義則上の競業避止義務違反も否定しています。原審(名古屋高裁)が共同不法行為を認めていたのを破棄し、請求を棄却した第一審判決の結論に戻した判断です。
判断で考慮されたのは、取引先4社のうち3社との取引が退職から5か月ほど経過した後に始まったこと、元の会社がもともと積極的な営業活動を展開していなかったこと、代表取締役就任の登記が遅れたことを隠ぺい工作とはいえないことなどです。最高裁は、退職者は競業行為を元の勤務先に開示する義務を当然に負うものではないとも述べています。
この判決からは、顧客が移ったという結果だけでなく、具体的にどのような方法で取引を始めたかを確認する重要性が分かります。ただし、競業避止特約がある場合まで、同じ結論になるとした判決ではありません。
出典:最一小判平成22年3月25日・平成21年(受)第1168号、民集64巻2号562頁・判決文PDF・裁判所ウェブサイト
ダイオーズ事件――顧客情報を使った営業で120万円の賠償
東京地裁平成14年8月30日判決(ダイオーズサービシーズ事件)は、清掃用品・マット・モップ類のレンタル事業で、決まった顧客を定期的に訪問する「ルートマン」として営業を担当していた従業員の事案です。この従業員は、在職中に、秘密保持と退職後の競業避止に関する誓約書を提出していました。
競業避止の定めは、退職後2年間、在職時に担当した営業地域(都道府県)と隣接地域において、同業他社への就職や独立を通じ、元の会社の顧客に営業活動を行うことなどを制限する内容でした。
なお、この事件の元従業員は自分から退職したのではなく、懲戒解雇された後に競合他社のフランチャイズに加盟し、在職中に担当していた顧客を訪問したという経過をたどっています。誓約書が「事情があって退職した後、理由のいかんにかかわらず2年間は」と定めていたこともあり、裁判所は解雇された元従業員についても誓約書に基づく義務を負うとして判断しました。
同業で働くことを全面的に禁じた事例ではない
裁判所は、守るべき情報の内容、元従業員の立場、期間・地域・対象顧客の限定などを検討しました。禁止されているのは元の会社の顧客を奪う行為であり、それ以外の営業まで禁じられているわけではないことも踏まえ、合理的な制限の範囲内と判断しています。
代償措置がないことだけで、直ちに無効とはしませんでした。しかし、この判断を「補償なしの競業禁止は常に有効」「2年間なら必ず有効」と一般化することはできません。判決は、秘密保持義務の合理性を前提に、期間・区域・職種・会社の利益・労働者の不利益・代償の有無を総合して判断すべきだという枠組みを示したうえで、この事案では制限の程度が小さいと評価したものです。
実務書でも、退職後の競業避止特約の効力は、①使用者の正当な利益、②退職者の従前の地位、③制限の範囲(期間・地域・職種)、④代償措置の有無や内容といった要素を総合して判断するものと整理されています(髙部眞規子『実務詳説不正競争訴訟〔第2版〕』356〜358頁)。契約書や誓約書がある場合でも、この四つの要素に沿って自社・自分の事案を点検することが出発点になります。
「漏えいが認められない」ことと「自由に使える」ことは違う
この事件では、第三者への顧客情報の漏えいを認めるに足りる証拠はないとされました。一方で、元従業員自身が顧客情報を利用して営業活動を行ったことは認められています。訪問先に取引単価の高い顧客が優先されていたことなどが、その根拠とされました。
裁判所は、競業避止義務違反という債務不履行を認め、120万円の賠償を命じました。損害についても、会社の請求額(437万2703円)をそのまま認めたのではなく、奪われた顧客との取引で得ていた利益を基本として評価しています。
したがって、この記事で紹介しているのは「顧客名簿を競合会社に漏えいしたと認定された事件」ではありません。情報を第三者に渡したかどうかに加え、自分の営業にどのように使ったかも問題になる事例です。
出典:東京地判平成14年8月30日・平成13年(ワ)第21277号、労働判例838号32頁、労働経済判例速報1821号3頁(一部認容・確定)。裁判所ウェブサイトには登載されていないため、判決文へのリンクは付していません。
二つの判例を比較すると何が違うのか
| 比較項目 | 三佳テック事件 | ダイオーズ事件 |
|---|---|---|
| 退職後の競業避止の定め | 特約等の定めなし | 誓約書による定めあり |
| 判断で重視された事情 | 営業秘密の利用や信用を落とすなどの不当な方法が認められない | 制限の合理性と、顧客情報を使った制限対象の営業活動 |
| 結論 | 不法行為・信義則上の義務違反を否定 | 競業避止義務違反による賠償を認容(120万円) |
この違いを「契約書があれば会社が勝ち、なければ退職者が勝つ」と理解するのは適切ではありません。契約があっても、その効力や対象となる行為を検討する必要があります。契約がなくても、不当な手段を用いた営業活動まで認められるわけではありません。
会社側が確認・保存しておきたい資料
顧客が移ったときは、まず次の資料から経緯を整理します。
- 雇用契約書、誓約書、就業規則と、本人に示した経緯が分かる資料
- 顧客情報の管理方法、アクセス権限、持出し・送信等の記録
- 顧客への営業メール、提案書、見積書、顧客からの連絡
- 退職日、営業開始日、契約の解約日・切替日が分かる資料
- 顧客別の売上げ、利益、契約期間、失注の理由が分かる資料
売上げの減少が、そのまま賠償される損害額になるとは限りません。どの営業行為によって、どの取引を失い、どの程度の利益が失われたのかを区別することが重要です。
資料は自社が適法に閲覧・管理できる範囲で保存します。退職者の私用アカウントなどへ無断でアクセスする方法は避けてください。顧客名簿やデータの持出しが疑われる場合の対応は、元従業員に営業秘密を持ち出された場合の対応方法もご覧ください。
退職者側が営業を始める前に確認したいこと
独立や転職を考えている方は、退職時の書面だけでなく、入社時の契約書や誓約書も確認してください。
「顧客への勧誘だけを禁じる条項」なのか、「取引や業務の提供まで禁じる条項」なのかで、検討は変わります。顧客の方から依頼が来た場合でも、それだけで制限の対象外になるとは限りません。
また、頭の中に記憶している情報であっても、その内容や利用方法によって問題になることがあります。「名簿を持ち出していないから大丈夫」と判断せず、単価・契約時期・顧客の要望等をどのように把握し、営業に使うのかを確認しましょう。記憶している顧客情報が営業秘密に当たるかが争われた例として、エース神戸事件の解説も参考になります。
警告書が届いた場合は、回答期限、問題とされる顧客・行為、差止めや賠償の根拠を整理します。関係資料を消去したり、確認前に違反を全面的に認める書面を提出したりする前に、契約と事実関係を照合する必要があります。具体的な手順は、競業避止義務違反の警告書が届いたら?回答前に確認すべきことで解説しています。
よくある質問
顧客から連絡が来た場合なら、受注してもよいですか?
顧客からの依頼であることは重要な事情ですが、それだけでは判断できません。契約が勧誘だけを禁止しているのか、取引やサービス提供まで禁止しているのかを確認します。
競業避止の期間が2年なら有効ですか?
2年という期間だけで決まりません。保護する利益、制限される地域・業務・顧客、従業員の立場、代償措置などを併せて検討します。ダイオーズ事件も、期間以外の限定や具体的事情を踏まえた判断です。
誓約書がなければ、顧客情報を使っても問題ありませんか?
誓約書の有無だけで結論は出ません。ほかの契約や就業規則、不正競争防止法上の営業秘密の保護、不法行為の成否なども問題になり得ます。
退職者の営業をすぐに止められますか?
差止めを求める権利があるか、対象行為を特定できるかを確認する必要があります。仮処分を検討する場合は、緊急に保全する必要性も別途問題になります。損害賠償を請求できることと、営業を差し止められることは同じではありません。
顧客の引き抜き・退職後の営業に関するご相談
虎ノ門法律特許事務所では、競業避止義務や顧客情報の利用に関するご相談を受け付けています。
会社側の方は「どの顧客への、どの行為を止めたいか」、退職者側の方は「どの業務・取引を予定しているか」をお知らせください。契約書・誓約書、警告書、営業活動の経緯が分かる資料があると、争点を整理しやすくなります。
来所・ウェブでの相談のほか、電話・メールでの相談も可能です。LINEでの予約・相談にも対応しています。電話受付は平日9~21時、土日祝9~18時です。
参照裁判例・文献
- 最一小判平成22年3月25日・平成21年(受)第1168号、民集64巻2号562頁(三佳テック事件)・判決文PDF・裁判所ウェブサイト
- 東京地判平成14年8月30日・平成13年(ワ)第21277号、労働判例838号32頁、労働経済判例速報1821号3頁(ダイオーズサービシーズ事件。一部認容・確定。裁判所ウェブサイト未登載のためリンクなし)
- 髙部眞規子『実務詳説不正競争訴訟〔第2版〕』(金融財政事情研究会・2025年)356〜359頁(従業員の競業避止義務・退職後の競業避止特約の合理性)、375〜377頁(秘密保持義務の発生原因・従業員の秘密保持義務)
※裁判例はそれぞれの契約内容と事実関係に基づく判断です。本記事の比較は、同じ結論を一律に適用できるという趣旨ではありません。
本記事は法的アドバイスを提供するものではなく、一般的な情報提供を目的としています。具体的な法律問題については、弁護士にご相談ください。

この記事の執筆・監修
虎ノ門法律特許事務所 代表
弁護士・弁理士 大熊 裕司
第一東京弁護士会所属(登録番号:37803)・日本弁理士会所属。商標・不正競争防止法をはじめとする知的財産紛争に注力し、警告書対応から審判・訴訟まで一貫して取り扱う。