不正競争防止法
2026/07/22 2026/07/23

フッ素樹脂シート溶接技術事件を読み解く――従業員が自分で考えた技術は「会社の営業秘密」か

「これは僕が一人で考案した技術だ。だから、辞めた後に競合会社で使うのも自由だ」――。退職した技術者がそう言って、前職で身につけた技術を新会社で再現したら?

不正競争防止法2条1項7号は、営業秘密を「示された」者がそれを図利加害目的で開示・使用する行為を不正競争行為としています。問題は、従業員が自分で開発したノウハウは、会社から「示された」情報といえるのかという点です。

今回取り上げるフッ素樹脂シートの溶接技術事件(大阪地判平成10年12月22日・判決文PDF・裁判所ウェブサイト 平成5年(ワ)第8314号、知的裁集30巻4号1000頁)は、営業秘密の「帰属」をめぐる古典的な一本。20年以上前の判決ですが、いまも学説の基準点として参照されます。


判断構造図

1 不正競争防止法2条1項7号の構造

1.1 「示された」の意義

不正競争防止法2条1項7号は、

営業秘密を保有する事業者からその営業秘密を示された場合において、不正の利益を得る目的で、又はその保有者に損害を加える目的で、その営業秘密を使用し、又は開示する行為

を不正競争行為として規制しています。

ここでの「示された」とは、典型的には、会社が従業員に対して秘密情報を伝達したケースを指します。会社の研究データ、顧客情報、ノウハウなどを業務上知らされた従業員が、これを退職後に競合会社で使えば、7号違反を問われる――というのが基本構造です。

1.2 従業員が自分で開発した情報の扱い

では、従業員が勤務先で自ら開発・考案したノウハウはどうでしょうか。これも会社から「示された」情報といえるのか――この問題に対し、学説は次のように分かれています。

(1) 帰属説

ノウハウが誰に帰属するかを基準として、7号該当性を判断する見解。特許法・著作権法の職務発明・職務著作の枠組みになぞらえる発想です(鎌田薫ほか)。

(2) 秘密管理提示説

「示された」の客体は「営業秘密」であり、ある情報が事業者の秘密管理下に置かれた後に、事業者が「これは営業秘密だ」と示したことが「示された」に該当する、と捉える見解(山根崇邦、西川喜裕ら)。

(3) 事実行為説

条文の文言通り、営業秘密が現実に「開示」されたか否かで判断するべきであり、従業者が自ら創作した情報については「示された」要件を満たさないため、7号は適用されないとする見解。代わりに契約違反責任で処理する(田村善之、林いづみら)。

このように、解釈論として大きな対立があり、現代の学説では事実行為説が有力に主張されています。本判決はこの議論の出発点に位置する裁判例です。

2 事案の概要

2.1 当事者と事業の構造

  • X社(原告):耐食性等を要求される箇所(缶体内面)にフッ素樹脂シートを貼り付けるフッ素樹脂シートライニングを主な事業とする会社
  • Y1(被告):X社の元営業課長
  • Y2(被告):X社の元専務取締役
  • Y3(被告):X社の元製造課長
  • Y社(被告):Y2らが新設したタンクの設計・製作・販売会社
  • Z社(被告):Y社からタンクを仕入れてA社に販売した会社

2.2 経緯

  • X社はA社からフッ素樹脂貼り付け化学薬品用タンクを受注。営業担当はY1
  • その後、Y1がタンク製造の中止を社内に指示し、製造が中止
  • 直後、Y1・Y2・Y3はX社を退職
  • 翌月、Y社が設立。Y2が代表、Y1・Y3が取締役
  • Y社は設立後すぐにX社タンクとほとんど同じ仕様のタンクを製造、Z社経由でA社に販売

2.3 X社の請求

X社は、シートライニングに使用する治工具である口金ノズルの加工技術等のノウハウ(本件ノウハウ)について、Y2ら・Y社・Z社に対し、

  • 不正競争防止法2条1項7号・8号違反
  • 差止め・損害賠償

を請求。Y2らはX社在職中に誓約書を提出しており、そこには「勤務に際して知り得た会社の技術、情報等を他に漏らさないこと、退職後もこれを遵守すること」が記載されていました。

2.4 Yらの反論――「Y3が単独考案したから帰属はY3」

Yらの中心的反論は、

本件ノウハウはY3が一人で考案し、実用化したものであるから、その権利はY3に帰属する。Y3が使用を認めている以上、Y社らが本件ノウハウを使用することには何の問題もない

というもの。本件ノウハウの帰属を争点として持ち出したわけです。

3 裁判所の判断

3.1 請求一部認容、一部棄却

裁判所は、本件ノウハウの一部について営業秘密該当性を認め、X社の請求を一部認容しました。

3.2 帰属に関する判断

まず、X社が役員・従業員から誓約書を徴して秘密保持義務を課していたことや管理状況等から、本件ノウハウの一部が営業秘密に該当すると判断しました。

そのうえで、Yらの「Y3単独考案・帰属はY3」との主張に対し、次のように判示しました。

確かに、……Y3は、B研究所に出向き……技術指導を受けて技術を習得し、X社において自らノズル等溶接用の器具の加工をしていたのであるが、これは、Y3がX社に入社した後のことであるから、Y3はその業務の内容としてB研究所から技術指導を受けたものと認められる。

したがって、その後、Y3がX社を退職するまで溶接用ノズルの加工等をしており(……)、本件ノウハウの確立等に当たってY3の役割が大きかったとしても、それはX社における業務の一環としてなされたものであり、しかも、Y3が一人で考案したものとまで認めるに足りる証拠はないから、本件ノウハウ自体はX社に帰属するものというべきであり、Y3個人に帰属するものとは認められない。

すなわち、

  • Y3の技術習得はX社入社後であり、技術指導を受けたのもX社の業務としてだった
  • ノウハウ確立にY3の役割が大きかったとしても、それは業務の一環
  • そもそもY3が単独で考案したと認めるに足りる証拠もない

という3点で、本件ノウハウのX社帰属を肯定しました。

3.3 7号該当性

そのうえで裁判所は別項目を立てて、

Y2らは、本件誓約書に基づき秘密保持義務をX社に対して負っていたところ、Y3は、X社から開示された……「営業秘密」に当たる……技術情報をY2、Y1およびY社に開示した

として、Y3の行為を不正競争防止法2条1項7号に該当すると判示しました。

4 本判決の位置づけ──「帰属説」と「秘密管理提示説」の交差点

4.1 帰属説的な側面

本判決は、本件ノウハウの帰属を正面から論じています。Yらが帰属を争い、裁判所もこれに応答する形で「X社に帰属する」と判示した点をとらえれば、判決は帰属説に親和的とも読めます。

ただし、Yらの主張は「7号のどの要件に関する主張か」を必ずしも明確に示していなかったこと、裁判所も帰属の議論と「示された」の議論を直接関連付けていないことから、帰属説と断定するのは難しいとも指摘されています。

4.2 秘密管理提示説的な側面

他方、判決は「Y3はX社から開示された……営業秘密」と述べており、ここに着目すれば秘密管理提示説を採用したとも読めます(山根崇邦・特許研究57号59頁)。

「Y2らは本件誓約書に基づき秘密保持義務をX社に対して負っていたところ、Y3はX社から開示された……」という文言は、「秘密管理下で誓約書を取得した状態にあったところ、当該情報を開示した」という秘密管理提示説の枠組みに沿うとも読めます。

4.3 事実認定からの「事実上の開示」認定

本判決は、本件ノウハウがY3ではなくX社に帰属する根拠として、

  • 「業務の一環としてなされたもの」
  • 「Y3一人で考案したものとまで認めるに足りる証拠はない」

を挙げています。これは、事実的にもX社からY3に開示されたという構成も成り立ちうる読み方です。本判決は、業務の一環として開発された情報については「示された」に該当すると推定する趣旨と読めます。

4.4 事実行為説からの批判

田村善之先生らの事実行為説からは、本判決の論理は批判されてきました。批判の要点は次のとおりです。

  • 7号の文言通り、営業秘密が現実に「開示」されたかで判断すべき
  • 従業者創作のノウハウは現実に「開示」された情報ではないから、7号には該当しない
  • 営業秘密保持義務契約があれば契約違反で損害賠償・差止めができ、転得者には8号で対応可能
  • 文言から離れた解釈で刑事罰(21条)まで適用するのは、営業・転職の自由の保障に反する
  • 契約を締結していない場合に従業者の予測可能性を犠牲にして事業者を保護するのは妥当でない

これらの問題意識から、現代の学説では事実行為説が有力とされています。

4.5 契約違反による救済の可能性

本件で注目すべきは、Y2らが誓約書を提出していた点です。誓約書による秘密保持義務違反であれば、契約違反に基づき損害賠償・履行請求ができます。本件は、不正競争防止法に頼らずとも契約違反で処理できた事案ともいえるわけです。

事実行為説からは、「契約があるなら契約違反で、ないなら7号適用はそもそも妥当でない」という割り切りが提示されています。

5 関連裁判例──従業者開発情報をめぐる判例の流れ

5.1 コーヒーサーバ事件

東京高判平成12年4月27日・判決文PDF・裁判所ウェブサイト(平成11年(ネ)第5064号・5721号〔コーヒーサーバ控訴審〕)は、X社の取締役Y1らが退職後にその競業会社Y社に転職し、X社と同一の顧客に営業をかけて取引が切り替えられたという事案で、

X社の顧客開拓の形態を認定し、また短期間に大量の切替えが行われたことから、何らかの形で整理された顧客情報を、そのようなものとして使用したものと推認せざるを得ない

として、Y社への切替顧客にY1らの人脈や紹介・開拓した顧客が含まれていたとしても、

Y1らがX社から示されずに独自に開発し、まだそれを記憶したもののみを用いて行われたものと認めることはできない

としました。第一審の横浜地判平成11年8月30日は「営業秘密の遵守義務は会社を退任した後もある程度の期間は継続する」とも述べています。

5.2 投資用マンション事件

知財高判平成24年7月4日・判決文PDF・裁判所ウェブサイト(平成23年(ネ)第10084号〔投資用マンション事件〕)は、

  • X1(投資用マンション販売)の営業部課長Y1・営業部員Y2が顧客とマンション売買契約を締結
  • 同社の子会社X2(X1販売物件の管理・賃貸業)の代理人・使者として賃貸管理委託契約締結も担当
  • X1退職後、自己担当のX2顧客情報を、自己所有の携帯電話や記憶に残った情報を、X2競業のY社(Y1代表)で使用・開示

した事案で、

顧客情報は「Xらの従業員が業務上取得した情報であるから、これを従業員が自己の所有する携帯電話や記憶に残したか否かにかかわらず、勤務先のXらに当然に帰属するというべきである」

とし、Yらに対しX2の代理人・使者としての善管注意義務に基づく秘密保持義務を認定しました。

5.3 判例の傾向

これらの裁判例から見えてくる傾向は、

  • 業務上取得した情報は、媒体(紙・データ・記憶)を問わず事業者に帰属するとの発想
  • 従業者の人脈・記憶も、業務の中で構築された限りでは事業者の利益として保護
  • 契約・善管注意義務など、不正競争防止法以外のルートも組み合わせて救済

ということです。本判決の射程は、こうした後続判例にも引き継がれています。

6 実務への示唆

6.1 企業側の備え

従業員開発情報を確実に企業に帰属させるためには、

対策 内容
入社時誓約書 秘密保持義務、職務発明・職務著作の帰属、競業避止条項を網羅
業務命令の文書化 開発業務の指示・予算・設備提供を記録
開発記録 開発過程・関与者・段階を記録(誰が何を着想したかを明確化)
退職時手続 退職時誓約書、引継ぎ記録、貸与物返還の確認
営業秘密管理 開発成果を社内ルールで秘密指定し、アクセス管理

特に、開発記録退職時手続は、後の訴訟で「業務の一環として開発された」を立証する上で重要です。

6.2 従業員側の留意点

退職を考える従業員側からすると、本判決のメッセージは厳しいものです。

  • 入社後に身につけた技術は、たとえ自身が中心となって開発した情報でも、原則として会社帰属と認定されやすい
  • 誓約書を提出している場合、契約違反責任を問われるリスクもある
  • 「自分で考案した」という主張は、業務の一環でない開発(自宅での独立作業、勤務時間外、自費等)でない限り、認められにくい

退職後の独立・転職を考える場合は、入社前から保有していた技能・知識と、入社後に業務として身につけた技術の境界線を意識することが肝要です。

6.3 契約と不正競争防止法の使い分け

本判決の事案は、誓約書による秘密保持義務違反としての契約構成も可能でした。実務では、

  • 契約構成:差止め・損害賠償・予測可能性に優れる
  • 不正競争防止法構成:転得者(Y社・Z社)への請求、刑事罰、損害賠償推定(5条)が使える

それぞれのメリットを理解し、必要に応じて両ルートを併用することが肝要です。

6.4 知財法を学ぶ方への視点

7号の「示された」要件の解釈は、不正競争防止法のなかで最も学説対立の激しい論点の一つです。本判決の事実認定の手厚さと、その後の事実行為説からの批判を比較すると、規範論と事実認定の関係が鮮やかに見えてきます。営業秘密と職務発明・職務著作との関係、契約違反責任との棲み分けなど、応用論点も豊富です。

7 まとめ

最後に本判決のポイントを整理します。

  1. 判旨の核:従業員が中心となって開発したノウハウであっても、入社後に業務の一環としてなされた開発である限り、当該ノウハウは事業者に帰属する。誓約書に基づく秘密保持義務を負う元従業員が、これを競業会社に開示する行為は不正競争防止法2条1項7号の不正競争に該当
  2. 学説:本判決は帰属説と秘密管理提示説の双方の射程に入る古典的判決。事実行為説からは「契約違反で処理すべき」との批判
  3. 実務:企業側は入社時誓約書・開発記録・退職時手続の三点を整える。従業員側は入社前後の技能区分を意識する

「自分が一人で考えた」という主張は、本判決のように業務の一環性のテストでほぼ覆されます。技術者が新天地で活躍するためには、入社前のスキルと入社後の業務成果を分けて整理する意識が、長期的には自身を守ることにもつながります。

出典・参考裁判例

裁判所HPの判例検索ページから事件番号で検索できます。

参考文献として、田村善之『不正競争法概説〔第2版〕』(2003)、小野昌延編著『新・注解不正競争防止法〔第3版〕(上)』(2012)、石井美緖「従業者開発、創作の営業秘密と不正競争防止法2条1項7号の『示された』要件」中山信弘先生古稀記念『はばたき―21世紀の知的財産法』(2015)、林いづみ「営業秘密の保有をめぐる従業者・会社間の法律関係」日本弁理士会中央知的財産研究所『不正競争防止法研究』(2007)、山根崇邦「不正競争防止法2条1項4号・7号の規律における時間軸と行為者の認識の構造」特許研究57号、石田信平「営業秘密保護と退職後の競業避止義務」日本労働法学会誌132号などが参考になります。


*※本記事は法的アドバイスを提供するものではなく、一般的な情報提供を目的としています。具体的な法律問題については、弁護士にご相談ください。*

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