はじめに
学生時代に書いた詩や作文が卒業文集に収録された経験を持つ方は少なくないでしょう。では、その文集に載った作品が、本人の知らないうちに商業出版物に転載された場合、著作権法による保護は及ぶのでしょうか。
本稿で検討するのは、著名なサッカー選手が中学時代に創作した詩の無断転載をめぐって争われた「中田英寿事件」(東京地判平成12年2月29日・平10(ワ)5887号)です。本件では、著作者人格権の一つである公表権(著作権法18条1項)の侵害が争点となり、学校文集のように配布先が限られた著作物が「公表」に該当するか否かが正面から問われました。
公表権の基礎知識
著作者人格権における公表権の位置づけ
著作権法は、著作者の財産的利益を保護する「著作権(財産権)」に加え、人格的利益を保護する「著作者人格権」を定めています。著作者人格権は公表権(18条)、氏名表示権(19条)、同一性保持権(20条)の3つから構成されます。
公表権とは、未公表の著作物をいつ・どのような方法で世に送り出すかを著作者自身が決定できる権利です。たとえば、机の引き出しに保管している小説の原稿や、自宅に飾っている絵画を著作者に無断で公にすれば、公表権侵害の問題が生じます。
公表権侵害の成立要件
公表権侵害が認められるためには、(1)原告が当該著作物の著作者であること、(2)当該著作物が未公表であること、(3)被告が著作者の承諾なく著作物を公にしたこと、の3要件を充足する必要があります。
とりわけ(2)の「未公表であること」は消極的事実であり、原告側の立証が困難です。この点、著作権法18条1項は著作者の同意なく公表された著作物を依然として未公表と扱う旨を括弧書きで規定しており、被告側が「著作者の同意のもとに公表済みである」ことを抗弁として主張・立証すべきと解されています。
「公表」の法的定義
著作権法4条1項によれば、著作物の「公表」とは、(1)著作権法3条1項にいう「発行」(著作物の性質に応じた相当部数の複製物が権利者の同意のもと作成・頒布されたこと)がなされた場合、または(2)権利者の同意を得て上演・演奏・上映・公衆送信・口述・展示などの方法で公衆に提示された場合をいいます。
ここで重要なのが「公衆」の定義です。著作権法2条5項は、不特定の者に加え「特定かつ多数の者」も公衆に含むと規定しています。すなわち、配布先が顔見知りの特定集団であっても、その人数が「多数」であれば公衆に該当します。
事案の概要
当事者
原告X(中田英寿選手)は、平成7年にJリーグでプロデビューし、アトランタ五輪やフランスW杯に日本代表として出場するなど、国内外で広く知られたサッカー選手です。被告Y1は書籍出版を業とする会社、Y2はその著者です。
紛争の経緯
被告らは平成10年3月頃、Xの出生からW杯出場直前までの半生を、私生活上のエピソードを交えて描いた書籍を刊行しました。この書籍の中に、Xが中学在学時に創作した「目標」と題する詩が無断で掲載されていたのです。
Xは書籍の執筆・出版について事前の通知も承諾も受けておらず、パブリシティ権・プライバシー権の侵害に加え、公表権および複製権の侵害を主張して差止めと損害賠償を求めました。
双方の主張
Xは、本件詩が中学校の学年文集に掲載されたにすぎず、配布先は卒業生・父兄・教職員に限定されていたから未公表であると主張しました。仮に公表に該当するとしても、文集の範囲を超えて一般書店で販売される書籍への転載までは想定しておらず、公表権侵害にあたると訴えました。
これに対し被告らは、学年文集は卒業生・教職員あわせて300名以上に配布されており、配布先から不特定多数に広まる可能性もあったため、既に公表済みであると反論しました。
裁判所の判断
「発行」該当性について
裁判所は、学年文集が卒業生・教職員あわせて300部以上配布された事実を認定し、この規模は著作権法3条1項が求める「その性質に応じ公衆の要求を満たすに足りる部数」に該当するとしました。限定的な媒体である学年文集であっても、300部以上の配布は「発行」の要件を充たすと判断されたのです。
Xの同意について
さらに裁判所は、Xが文集への詩の掲載を承諾していたと認定しました。Xの同意のもと300部以上が頒布された時点で「公表」は完了しており、一度公表された著作物について公表権を行使する余地はないとして、公表権侵害の主張を退けました。
判決の全体像
なお、裁判所は公表権侵害とパブリシティ権侵害を否定する一方、プライバシー権侵害と複製権侵害は認め、書籍全体の出版差止めおよび385万円の損害賠償を命じています。Xの請求が一部認容された事案であることに留意が必要です。
本判決の意義と実務上のポイント
限定配布でも「公表」と評価され得る
本判決は、学校文集のように配布範囲が限られた著作物であっても、部数が相当程度に達していれば著作権法上の「発行」ひいては「公表」に該当し得ることを明示しました。著作権法2条5項が「特定かつ多数の者」を公衆に含むと定めていることと整合する判断です。
残された理論的課題
本件では300部以上が基準となりましたが、50部や100部の場合にどう判断されるかは明確ではありません。著作権法3条1項が「その性質に応じ」としている以上、著作物の種類によって基準は変動し得ます。
また、中学生による文集掲載への同意をどこまで公表権放棄の意思表示として評価すべきかという問題や、限定的な公表と商業出版への転載との間にある質的な違いをどう法的に捉えるかという論点も、引き続き検討が必要です。
教育現場・クリエイターへの示唆
学校の文集や卒業アルバムに掲載された創作物が法的に「公表済み」と扱われる可能性がある点は、教育関係者・クリエイター双方にとって重要な知識です。ただし、公表権の問題とは別に、複製権等の著作権(財産権)による保護は依然として及ぶため、第三者の無断転載が許されるわけではありません。
まとめ
中田英寿事件は、学校の文集という日常的な媒体が著作権法上の「公表」に該当するかという基本的な問題に明確な回答を示した裁判例です。裁判所は、300部以上が配布された学年文集への掲載をもって「発行」に該当すると判断し、公表権侵害の主張を否定しました。
限定的な配布であっても一定部数を超えれば法的には「公表」と評価される可能性があること、そして一度公表された著作物には公表権を主張できないことが、本判決の核心です。自身の創作物がどのような形で世に出るかについて、文集への掲載時点から意識を持つことが権利保護の第一歩となるでしょう。
判決情報
東京地判平成12年2月29日・平成10年(ワ)第5887号(損害賠償請求事件)
裁判所HP
判時1715号76頁、判タ1028号232頁