商標の類似性を判断するとき、「現実の市場でどのように取引されているか」という事情(取引の実情)は考慮されるべきでしょうか?考慮するとして、どこまでの事情を考慮してよいのでしょうか?
この問題について、最高裁が明確な基準を示したのが保土谷化学工業社標事件(最判昭和49年4月25日・昭和47年(行ツ)第33号)です。本判決は、商標の類否判断で考慮できる「取引の実情」の範囲を限定した判決として、現在の裁判実務にも大きな影響を与え続けています。
商標の類否判断の基本的枠組み
「混同のおそれ」が基準
商標法4条1項11号は、既登録商標と同一・類似の商標は登録できないと定めています。最高裁は氷山印事件判決(最判昭和43年2月27日)において、商標の類否判断は「混同のおそれ」を基準とすべきであると判示しました。
「取引の実情」の意義
混同のおそれを判断するためには、各商標が付された商品が現実の市場でどのように取引されるかを想定する必要があります。これが「取引の実情」を考慮すべき理由です。
【本願商標と引用商標について】 本願商標と引用商標はいずれも円と矢印を組み合わせた幾何学的な図形商標であり、全体的な構成が類似しています。本件は判例集未登載のため裁判所HPに全文は掲載されていませんが、判例百選の解説記事において両商標の図形が対比されています。
事件の概要
原告X(保土谷化学工業)は、円と矢印を組み合わせた図形からなる標章について、指定商品を「染料、顔料、塗料」等として商標登録出願をしました。特許庁は既登録商標と外観上類似するとして拒絶査定をしました。
Xは、染料等の通常の取引者は専門業者であり、Xは一般消費者を販売対象としていないため混同は生じないと主張しましたが、東京高裁はこれを退けました。
最高裁の判断――「一般的、恒常的」な取引の実情のみ考慮可
最高裁は、上告を棄却し、以下の重要な判断を示しました。
「商標の類否判断に当たり考慮することのできる取引の実情とは、その指定商品全般についての一般的、恒常的なそれを指すものであって、単に該商標が現在使用されている商品についてのみの特殊的、限定的なそれを指すものではない」
なぜ「一般的、恒常的」に限定されるのか
商標権の永続可能性
商標権は、更新登録により半永久的に存続しうるものです。登録査定時の使用態様によって混同のおそれがないと判断しても、将来使用態様が変わる可能性があります。
抽象的混同説の支持
このような考え方は「抽象的混同説」と呼ばれ、一般的な取引態様を前提として「商標自体が取り違えられるおそれがあるほど似ているかどうか」を基準とします。
これに対し、「具体的混同説」は具体的な混同のおそれを追求し、個別具体的な取引の実情も考慮すべきとする立場です。
その後の裁判例の展開
本判決後、下級審の立場は揺れ動きました。2010年前後には具体的な使用態様を考慮する裁判例が相次ぎましたが、学説からの批判を受け、近時では本判決を引用して具体的使用態様を恒常的なものではないとして排斥する裁判例が再び増えてきています。
実務へのポイント
商標登録出願を検討する方へ
- 登録場面での類否判断では、「うちの商品は専門家しか買わない」といった個別具体的な事情は考慮されにくいことを認識しておく必要があります
- 類否判断は、指定商品全般についての一般的な取引態様を前提として行われます
知財法を学ぶ方へ
- 氷山印事件最判と本判決の関係を整理しておくことが重要です
- 抽象的混同説と具体的混同説の対立、サーチコスト理論など理論的基盤も押さえましょう
まとめ
保土谷化学工業社標事件は、商標の類否判断で考慮できる「取引の実情」の範囲を明確に限定した最高裁判決です。考慮できるのは「指定商品全般についての一般的、恒常的な取引の実情」であり、特殊的・限定的な事情は含まれません。この判決は現在の裁判実務にも大きな影響を与え続けています。
出典・参考判例
- 保土谷化学工業社標事件(最判昭和49年4月25日・昭和47年(行ツ)第33号)
- 氷山印事件(最判昭和43年2月27日)民集22巻2号399頁
本記事は法的アドバイスを提供するものではなく、一般的な情報提供を目的としています。具体的な法律問題については、弁護士にご相談ください。